ローマの信徒への手紙 15 章 22 節から 33 節
4 月から皆様と一緒に「ローマの信徒への手紙」を読んできましたが、今日はこのローマの信徒
への手紙を記したパウロが、どうしてこの手紙を記さなければならなかったのかについてお話しし
たいと思います。
パウロがこの手紙を記していた時、教会は正に分裂の危機であり、パウロ自身は教会から命を狙
われていました。そんな切羽詰まった状況だったのです。なぜ、パウロは狙われていたのでしょう
か?しかも教会の同じクリスチャンから命を狙われていた。いったいどういうことなのでしょう
か。・・・その原因は、このローマの信徒への手紙でも何度も記されているパウロの主張そのもの
にありました。
そもそもそのパウロの主張とは、どのようなものだったのでしょうか。日本人は漢字四字で表す
四字熟語が好きですね。例えば「一所懸命」とか「自給自足」などがあります。実は、パウロがこ
のローマの信徒への手紙で主張していたことも四字熟語でよく言い表されています。それは「信仰
義認」です。これは「信仰によって義と認められる」、つまり自らが信じることによって救われる
という意味です。・・・しかし、この信仰義認については、多くの聖書学者が意を唱えています。
パウロが伝えたかったことは「信仰義認ではなく、義認信仰ではないか」と。この義認信仰とは「義
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と認められることを信仰する」つまり、自分がすでに救われていることを信じるという意味です。
これは四字熟語の前後を入れ替えるだけですが、意味は大きく違ってきます。私もパウロが伝えた
かったことは義認信仰であったと考えています。パウロはこのローマの信徒への手紙の中でその
「義認信仰」を主張してきました。
正にパウロがその義認信仰を主張していたがために、教会は分裂の危機となり自身も同じクリス
チャンに狙われ殺されそうになっていたのです。ではなぜ義認信仰を主張することによって教会が
分裂し命が狙われることになってしまうのでしょうか。そんなに間違ったことなのでしょうか。
少しだけ当時の教会の事情をお話ししたいと思います。パウロの時代の教会は、今の様なキリス
ト教ではありません。当時の教会はユダヤ教の一派だったのです。そもそもイエスはキリスト教を
作ったのではありません。イエスはユダヤ教徒のまま十字架にかけられ復活しました。イエスの弟
子たちもユダヤ教徒のままでした。パウロも一緒です、イエスの福音を信じたけれども、ユダヤ教
徒を辞めたわけでもキリスト教を始めたわけではありません。当時の教会はユダヤ教の一派だった
のです。それを仮にユダヤ教イエス派とします。
その当時の教会であったユダヤ教イエス派は、イエスの福音を信じたと言ってもユダヤ教です。
ユダヤ教の決まりや習慣を守らなければなりません。そのユダヤ教の最も大切なものが二つありま
す。それは「律法」と「割礼」です。その「律法」とは、神の救いに与るための生活規範です。そ
して「割礼」は、ユダヤ教徒になるための信仰の証であり、ユダヤ教に入信するためには必ず受け
なればなりませんでした。それは当時の教会であるユダヤ教イエス派でも例外ではありません。当
時の教会は異邦人(ユダヤ人ではない人々)に宣教し、多くの異邦人が教会に集うようになりまし
た。そこで問題になったのは「その異邦人をどのようにすればよいか」ということだったのです。
そもそもユダヤ教は、その名の通りユダヤ人のみを対象にした宗教でありますから、異邦人がたく
さん集ってくることを想定していないのです。そこでユダヤ教の原則に従えば全ての異邦人に割礼
を施すということになります。しかし、パウロはここで「割礼」を全否定したのです。それだけで
はありません「律法」をも否定しました。パウロは、イエスの福音には、神の救いに与るには、そ
の二つはいらないと断言したのです。なぜならパウロの主張は「義認信仰」だからです。そこは絶
対に譲らないのです。
当時これはとても衝撃的なことでした。今の教会に例えると「バプテスマは必要ない」と断言す
るようなものです。これは当時のユダヤ教のみならず、教会であるユダヤ教イエス派においても、
大問題となりました。それによってエルサレムにおいて「使徒会議」が招集されたほどです。その
ことが使徒言行録の 15 章に記されています。そこによるとパウロは師匠のバルナバと一緒にその
会議に出席し、主流派のヤコブとペトロ、そして保守派の人々とも話し合い、大筋パウロの主張を
認めてもらうことになったと記されています。しかし、パウロはこの決定は不服でありました。
この当時の教会であるユダヤ教イエス派には、三つの立場があったと言っていいでしょう。一つ
はパウロを中心とする義認信仰派、彼らは神の救いに与るには条件などないと主張していました。
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もう一つは、エルサレム教会の中道主流派、彼らは神の救いに与るには律法も割礼も必要ないが、
少しだけ条件があるとしていました。そして、最後は神の救いに与るには律法も割礼も絶対必要で
あるという保守派です。彼らもエルサレムにいました。パウロは救いには条件はないと主張した義
認信仰派の中心であり、律法も割礼も必要ないと主張していました。そのために保守派から命を狙
われていました。しかも、パウロが中心となっていた義認信仰派は教会の中でもごく少数派だった
ようです。しかも、パウロがローマの信徒への手紙を記した時、教会内で保守派が拡大し、中道主
流派を飲み込む勢いであしました。もしそうなれば、パウロたち義認信仰派は追い出され教会は分
裂してしまいます。パウロにとって教会の分裂は何としても避けなければならない問題であったの
です。
ちょうどその時、エルサレム周辺で災害級の飢饉が起こります。それによってエルサレム教会の
人々が困窮してしまうのです。そこでパウロは、エルサレム教会の人々をなんとか支えるために、
それぞれの異邦人教会で支援金を集めてエルサレム教会の援助しようとしたのです。それはパウロ
たち義認信仰派である異邦人教会からエルサレム教会への連帯の証でもありました。パウロは教会
の分裂を止めるには、それしかないと考えたのです
そのことが今日の聖書箇所、ローマの信徒へ手紙 15 章 26 節から 28 節に記されてあります。
「しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。マケドニア州とアカイア州の
人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。
彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なもの
にあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。それで、わたしはこのことを
済ませてから、つまり、募金の成果を確実に手渡した後、あなたがたのところを経てイスパニアに
行きます。」
パウロは、教会の分裂を止めるために、どうしても募金をエルサレムへ持って行かなければなり
ませんでした。しかしこれには危険も伴います。パウロは保守派の人たちからその命を狙われてい
るのです。そのことをパウロはこのように記しています。30 節、31 節を読みます。
「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、“霊”が与えてくださる愛によっ
てお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください、わたしが
ユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎さ
れるように」
ここに記されている「不信な者たち」とは、保守派の人々のことです。パウロはここで皆から集
めた募金を無事にエルサレムの教会の人々に渡して異邦人教会の連帯を示すことができるように、
教会が分裂してしまうことを止めることができるように、祈ってほしいと記しているのです。
おそらくパウロはエルサレムへ行けば殺されることを覚悟していました。それくらいの状況だっ
たのです。使徒言行録でもパウロのエルサレム行きをエフェソの長老たちが必死で止めても、パウ
ロがそれでも行くという涙の別れの場面が記されています。その時のことが使徒言行録 20 章 36 節
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から 38 節に記されています。
「このように話してから、パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った。人々は皆激しく泣き、パウロ
の首を抱いて接吻した。特に、自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、
非常に悲しんだ。人々はパウロを船まで見送りに行った。」
ここにパウロが「自分の顔をもう二度とみることはあるまい」と言ったと記されています。パウ
ロはエルサレムへ行けば殺されることを覚悟していました。だからこそ自分が死ぬ前に、まだ見ぬ
ローマの人々へ伝えなければならないと最後に手紙を記した。それがこのローマの信徒への手紙で
す。
このローマの信徒への手紙の文章は、理路整然とキチン整理された内容ではありません。パウロ
の思考が行ったり来たりして、とても読みにくいし分かりにくいです。おそらくそれはパウロ自身
の様々な迷いや恐れ、葛藤がその文章に現れているのだと思うのです。しかしそんなパウロにも、
ブレないものがありました。それが「義認信仰・既に救われていることを信じる」ことです。パウ
ロは、これこそがイエスの福音だと確信し、そのイエスの福音を少しも妥協せずに伝えようとした
のです
そしてパウロには、もう一つブレないものがありました。それは教会の和解です。なぜなら、パ
ウロは死を覚悟してでも教会の分裂を止めにエルサレムへ行くからです。私は思うのです。パウロ
は、ユダヤ教イエス派であるエルサレム教会に見切りとつけて、そのままキリスト教を立ち上げて
も良かったはずです。きっとそっちの方がうまくいったでしょう。でも、パウロはそれをしません
でした。パウロは、和解を目指したのです。意見やあり方は違っても、同じイエスの福音を信じる
者としてお互いを認め合いたかったのです。義認信仰と和解、パウロはそれだけはブレなかったの
です。そんなパウロが目指した教会の延長に、私たちの教会もあります。
その後パウロはどうなったのか。パウロはエルサレム教会へ募金を持って行きましたが、受け取
ってもらえませんでした。更にパウロは、殺されはしなかったものの、ローマ帝国当局に捕えられ
てしまいます。エルサレム教会はそんなパウロを助けず見捨てたのです。しかし、パウロは囚われ
の身という形でありましたがローマへ行き、ローマの教会の人々と会うことが叶います。おそらく
その後、間も無くパウロは処刑されたと言われています。でも、そのパウロが伝えたかった、義認
信仰と和解が今も私たちに伝えられています