マタイによる福音書 1 章 18 節から 25 節
イザヤ書7章14節
久保親哉
ご覧のように一つの目のロウソクが灯り、アドベント第一週となりました。あっという間にもう 12 月です。クリスマスには救い主イエスの誕生のお話が礼拝や教会学校でなされます。そのお話 の主な登場人物といえば、イエスとマリアにヨセフですね。その中でもイエスとマリアにはスポッ トライトが当たると思うのですが、ヨセフはどちらかというと「ちょい役」ですね。しかし、今日 の聖書箇所の主人公はヨセフです。今日の聖書箇所は、そのヨセフの人柄が滲み出ているところだ と思うのです。それはヨセフがマリアのことで思い悩み、苦悩しているからです。今日はそのヨセ フの人生に焦点を当てて聖書を読んでいきたいと思います。先ほどヨセフは思い悩み、苦悩してい るとお話しましたが、その原因は 18 節に記されています。 「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていること が明らかになった。」 二人が一緒になる前にマリアが身ごもっていることが明らかになった。これは当時、大事件であり ました。聖書の時代、婚約相手以外の子を妊娠してしまった女性は、死刑であったからです。これ はあってはならないことでありました。この当時のユダヤでは、結婚前に 1 年間の婚約期間があり ました。その婚約期間は今の私たちの感覚とは違うのですね。今の時代は、婚約しても解消して
別々の道を歩むことがあります。しかし、この聖書の時代の婚約は結婚と同じ効力がありました。 ですから聖書の婚約は、今の私たちの結婚と同じなのですね。そんな結婚に相当する婚約相手が、 一方的に妊娠してしまった。これは大事件でした。しかも、それがヨセフの耳に入ったということ は、密かにヨセフが知ったというよりも、噂が巡り巡ってヨセフの耳に届いたことを表しています。 いつの時代でも、このような噂は早く広まります。しかも関係者ほど後になってそれを知る。もち ろんマリアが聖霊によって妊娠したなんて、誰も信じなかったでしょうし、噂になりありもしない 尾びれ背びれがつけられて広まったことでしょう。
ヨセフは、この知らせを聞いて衝撃を受けたにちがいありません。当時の男性の結婚適齢期は 18 歳、結婚の一年前だとするとまだ 17 歳の男の子です。結婚を進めてきた相手が、他の人の子を妊 娠したという事実を知って、最初は「怒り」や「悲しみ」「なぜ、こんなことに」と思い悩んだで しょう。・・・そして、ヨセフはある決心をします。そのことが 19 節に記されています。 「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろ うと決心した。」
ここにはヨセフが「正しい人」であり「ひそかに縁を切ろうと決心した」と記されてあります。 この箇所を読むとヨセフが彼自身の正しさを貫くために縁を切ろうとしている少し冷たい人のよ うに感じます。しかし、ここにはヨセフの実直で優しい人柄が滲み出ているのです。先ほどもお話 ししましたが、当時の婚約は結婚と同じ効力を持ち、その婚約時に他の人子を妊娠してしまった場 合は、姦淫の罪で死罪となりました。ですからヨセフはマリアを「姦淫の罪」で訴えることもでき たでしょう。しかし、ヨセフはそうしませんでした。19 節に「マリアのことを表ざたにするのを望 まず」と記されてあります。この「表ざた」とは聖書のもともとの言葉で「さらし者にする」とい う意味です。ヨセフはマリアを「姦淫の罪を犯した者」としてさらしものにしたくない。更に彼女 が死罪になることをヨセフは望みませんでした。なぜならヨセフはひそかに縁を切ろうとていま す。すでに婚約が解消されていれば、マリアの姦淫の罪はなくなります。ヨセフはもともと婚約は 解消されていたとして、マリアを無罪にしようとしたのです。ヨセフにとってマリアは親が決めた 結婚相手であったかもしれないけれども、すでにもう大切な人であったのかもしれません。ヨセフ は心に大きな痛みを持って「ひそかに縁を切ろうと決心した」のです。
そんな時に、ヨセフの夢に天使が現れるのです。20 節 21 節を読んでみましょう。 「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリア を迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その 子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
おそらく何日も思い悩み、眠れない夜を過ごしたヨセフ。やっと、うとうとした時に夢に天使が 現れます。そして「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」とのお告げを受けるのです。ヨセフは眠り から覚めると、マリアを妻に迎え入れたと 24 節に記されています。・・・なぜ、ヨセフはマリアを 妻に迎え入れたのでしょうか。夢に天使が出てきたからでしょうか・・・。でも所詮、夢の中の話
です。マリアが妊娠する時にも天使が現れました。しかし、それは夢ではありません。現実に、マ リアに現れたのです。直接現れたのなら信じようが信じまいが、現実に起こったことです。しかし、 夢だったらどうでしょう。「今日は、変な夢をみたなぁ・・・気になる夢だったけど、現実的に考 えてやっぱり離縁しよう」と思うのが普通ではないでしょうか。しかも、マリアを迎え入れること は、とてもリスクが伴うのです。他の人の子を妊娠してしまったことは、村中の人々に知れ渡って います。たとえ結婚したとしても、ヨセフやマリアたち家族は後ろ指を刺されながら生きていかな ければなりません。時には差別され嫌がらせを受けたでしょう。実際に福音書にはイエスがその出 生について後ろ指を差されながら生きていたことがうかがえる言葉があります。ヨセフはそのこと も考えたでしょう。マリアの時のように、実際に天使が目の前に現れていったのであれば、信じた かもしれません。しかし所詮、夢なのです。・・・それでもヨセフは天使の言葉を信じ受け入れた。 なぜでしょうか。・・・少しこのヨセフについて考えてみましょう。
ヨセフは大工でありましたが、家を建てる大工ではなく、家具を作る木工職人であったと言われ ています。しかし、彼が住んでいたナザレ村には、彼のような木工職人が請け負う仕事はほとんど なかったでしょう。なぜなら、ナザレ村は貧しく、家具などを置ける裕福な家などは無かったから です。そもそも家そのものが粗末な掘っ立て小屋でありましたから、木工職人に作ってもらう物も お金もなかったのです。その当時、ナザレ村があるガリラヤはローマ帝国からその領地を請け負っ たヘロデ王の暴力と搾取の只中にありました。その圧政の中で、多くの人々は今日食べるのにもこ と欠くような貧しい生活を強いられていたのです。そんな生活の中で家具を作ってもらう余裕なん てなかったのです。・・・しかし、ナザレから一時間ほど歩いたところにセフォリスという都があ り、ヘロデ王や貴族、ローマの高官など特権階級の人たちが住んでいました。ヨセフのような木工 職人は、おそらくそこから仕事をもらい家具を作っていたのでしょう。ヨセフはナザレの村から彼 らの大邸宅に通っていました。・・・ここからは、あくまでも私の想像なのですが、ヨセフはナザ レの村から貴族の大邸宅に通うことによって、ある事に気づいたのではないでしょうか。圧倒的に 多くの人々は掘っ立て小屋に住み、今日の食べ物にもこと欠く貧しい生活を強いられている。しか し一方でごく一部の人たちはタイル張りの豪邸に住み、食事も有り余る生活をしている。しかも貧 しい人々は、その貧しさからユダヤ教の戒律である律法を守ることができず、罪人と定められ神に 捨てられた者とされているに対して、ごく一部の裕福な人々は、神から選ばれた人々となっている。 「これは何かおかしい。ナザレ村の人々が罪人とされ、神から捨てられた人となっているのはおか しい」とヨセフは感じたのではないでしょうか。ヨセフは、貧しいナザレ村から貴族の大邸宅へ通 ううちに、その疑問を深めていったのではないかと思うのです。
だからこそ、夢の中の天使の言葉が彼の心に刺さった。21 節「マリアは男の子を産む。その子 をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」この「この子は自分の民 を罪から救うからである」という言葉がヨセフの深いところに響いたのではないでしょうか。この 「自分の民」とはイスラエルの民とか教会と考えることもできます。しかし、イエスは最も貧しく 虐げられた人々の只中に生まれたのですから、差別され虐げられた人々、言い換えれば「神から最
も遠いと思われている人々を自分の民とした」とも読めます。そして、「自分の民を罪から救う」 の「罪」とは、この文脈から暴力や搾取の中で貧しさを強いられ、生きるために当時のユダヤ教の 律法を守れない人々の痛みや苦しみをこの「罪」という言葉で表しているのです。ですから、21 節 をその視点で読み直すと「この子は、神から最も遠いと思われている人を、その罪、痛み、そして 苦しみから救うからである」と伝えているのです。その言葉がヨセフの心に響いた。
そのことを裏付けるかのように 22 節 23 節が記されています。そこをお読みします。 「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであ った。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、 「神は我々と共におられる」という意味である。」
この言葉は、イエスの時代から更に約 700 年昔の預言者イザヤの言葉です。これはもう一つの聖書 箇所であるイザヤ書 7 章 14 節に記されています。そこをお読み致します。 「それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもっ て、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。」
これは、戦争直後の絶望的な暗黒時代にイザヤによって語られた言葉です。これは「どんなに絶 望の淵にいたとしても希望がある。小さく無力にされたところにこそ、主なる神が共におられる」 ことを表しています。イエスは、最も虐げられ、貧しくさせられている人々の只中に生まれたので す。ヨセフは、その救いの希望を胸に抱いて、マリアを迎え入れたのではないでしょうか。
その後、ヨセフはどのような人生を歩んだのでしょうか・・・それは大まかではありますが福音 書から辿ることができます。その後ヨセフを確認することができる聖書箇所は、ルカによる福音書 2 章です。そこには 12 歳になったイエスと母マリア、父ヨセフがエルサレム神殿に登ったと記さ れていますから、ヨセフはイエスが 12 歳になるまでは生きていた、ということになります。その 後のヨセフに関する記述はありません。特にイエスが宣教を始めてから、母マリアはいくつも記さ れているのに対し、父ヨセフの記述が全くありません。・・・それはおそらくイエスが 12 歳から宣 教を始めた 30 歳の間に父ヨセフは亡くなったのでしょう。ヨセフは、イエスが救い主として宣教 することも、その救いを見ることもありませんでした。
私はこのヨセフを思う時、ヨセフは主なる神から与えられた人生を受け入れて、誠実に生きた人 であったと思うのです。地味だったかもしれない、目立たない人であったかもしれない。そしてイ エスを最後まで見届けることもできませんでした。しかし、ヨセフはその人生を受け入れて生きた のです。ひょっとしたら、彼が望んだ人生ではなかったかもしれません。しかし、それも主なる神 が共におられる人生、主なる神と共に歩んだ人生でありました。マタイ福音書1章 23 節の最後の 言葉をもう読みます。「この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」神はヨセフと共 におられたのです。誰であれ、どのような人生であれ、それはたった一つしかない大切な人生であ り、主なる神がその方と共に歩んだ人生なのです。