イザヤ書25章1節から9節
久保親哉
三つ目のロウソクが灯りました。来週はもうクリスマスです。・・・突然ですが、皆様には居場 所があるでしょうか・・・。 実は私が高校生の頃「自分には居場所が無いなぁ」と思っていたの ですね。私は茨城県の田舎の高校に通っていたのですが、あまりクラスに馴染めなかったのです。 特にいじめられていたということは無かったのですが、いつも自分がクラスから浮いているように 感じ、自分の居場所がありませんでした。そのためか授業に無関心になり、学校に行かなくなって しまったのです。定期テストもモチベーションが無かったので、全く勉強せず成績がどんどん落ち て行き、親が学校に呼び出されるということが続きました。その頃の私は、反抗期だったからか、 それとも将来に悲観的だったからか、親や学校の先生に色々言われても、何も感じることもなく、 ただ無気力になっていたと思います。
そんな私だったのですが教会だけは通っていたのです。中学や高校の最初の頃は、あまり行かな かったのですが高校 2 年生ぐらいから教会だけは通い続けました。それはキリスト教の教義が素晴 らしいとか、牧師のメッセージに感動したということではなく、教会が私とって居場所になってい たからだと思うのです。教会にはいろんな方々がいました。それこそ幼児からご高齢の方まで、そ れに都会出身の方やずっと代々茨城在住の方、職業も年代もバラバラで、教会でなかったら決して 出会うことがない方々がおられました。その方々が、高校生の私の名前を覚えていて、声をかけて くれる。それは当たり前の事なのですが、私にとってとても不思議な場所でありました。それに教 会には青年会があって、20 代のお兄さんお姉さんたちが毎週のように高校生の私をかまってくれ て、色々と遊びに連れていってくれました。今では考えられませんが、時々その青年会の飲み会があり、高校生の私も連れてかれ、夜遅くまで付き合ったというか一緒に居させてもらったことが何 度もありました。なぜか私の親は、教会の青年会と言えば、全て許してくれました。今、同じこと をしたら大問題ですね。でも私にとってそれは青年会の一員でいるような感じがして、とても嬉し かったです。
高校生の時に私は無気力になっていたとお話しましたが、その頃の私にとって世界とは学校その ものでありました。ですから学校でつまずいて、うまくいかなくなると、もうやり直しが効かず、 私にとって「世界の終わり」を意味していたのです。そんな大袈裟だと思われるかもしれません。 今はこんなおじさんになったので、学校なんか小さくて、世界はもっと広いし、やり直しなんてい くらでもできると思えるのですが、高校生の頃の私は本気でもう世界の終わりだと思っていまし た。
しかし、教会に行くことによって変わったのです。教会では、全てのことに無気力だった私の名 前を読んでくれる人がいて、かまってくれる人がいて、一員と認めてもらえる。たとえそれが週に 1 回だけでも、それが私にとっても居場所になりました。また、教会で行われている関東や全国規 模の中高生のキャンプや修養会に参加してみると、学校以外の同世代と人たちと出会い、語り合い 友達になっていきました。このことも私にとっては衝撃的で「世界は学校だけじゃない、とても広 いんだ」と実感することができたのですね。 ある人が「教会は第三の場所になってほしい」と話していたのを聞いたことがあります。それは家 庭でもない、学校でもない第三の場所です。私にとって教会は第三の場所になったのです。私は、 そんな第三の場所があったからこそ、無気力になっていた所から起き上がって、少しずつ前に進む ことができたのだと思います。家庭と学校だけでは、逃げ場所が無かったでしょう。今思えば、私 は教会に救われたと思います。私は、そのような第三の場所、逃げ場所がとても大切だと思ってい ます。
どうしここんな事をお話したかと申しますと、今日の聖書箇所にはそんな逃げ場所が記されてい るからです。今日の聖書箇所イザヤ書 25 章 4 節 5 節をお読みします。 「まことに、あなたは弱い者の砦 苦難に遭う貧しい者の砦
豪雨を逃れる避け所 暑さを避ける陰となられる。 暴虐な者の勢いは壁をたたく豪雨 乾ききった地の暑さのようだ。 あなたは雲の陰が暑さを和らげるように 異邦人の騒ぎを鎮め 暴虐な者たちの歌声を低くされる。」
この最初に「あなたは弱い者の砦、苦難に遭う貧しい者の砦」と記されています。この砦とは、 先ほどお話した逃げ場所を表しています。正に居場所がなく、無気力になっていた高校生の私にと って教会がそうであったように、ここに記されている「砦」とはそんな逃げ場所であり第三の場所 であるのです。4 節途中には「豪雨を逃れる避け所、暑さを避ける陰」と記されていますが、それ は行き詰まってしまった時に逃げる場所、ただ居るだけでも許される場所です。 先ほど「家庭や学校ではない第三の場所」についてお話しましたが、そんな第三の場所や逃げ場所 が必要なのは、過去の私のような高校生だけではないでしょう。大人であっても、誰であっても、 そんな第三の場所が必要なのではないでしょうか。それは家庭や学校・職場・もしくは社会以外の 第三の場所です。高校生の私にとってそれは教会ありましたが、それは何も教会だけではないと思 います。もちろん私は、教会がそんな誰かの第三の場所になってほしいと願っています。
そんな「第三の場所」がどのような場所であるかが、6 節から 8 節に記されています。 「万軍の主はこの山で祝宴を開き すべての民に良い肉と古い酒を供される。
それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。
主はこの山で すべての民の顔を包んでいた布と すべての国を覆っていた布を滅ぼし 死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい 御自分の民の恥を 地上からぬぐい去ってくださる。 これは主が語られたことである。」
ここには主なる神が宴会を開き、そこには良い肉とえり抜きの酒が用意されると記されています。 ここはただ楽しい宴会が開かれてるということではなく、この第三の場所には最も良い食べ物が用 意されていると記されています。その食べ物とは、私たちが生きるために必要なもの、しかも最上 のものが用意されていると記しているのです。その生きるためのものとは何でしょうか。そのこと が 7 節 8 節に記されています。
7 節には「顔を包んでいた布が滅ぼされる」と記されています。この「顔」とは一人として全く同 じか顔が無いように、その個性やその人らしさを表しています。それが包まれて隠されていたとい うことは、その人らしさを奪っていたことを表しています。まさに、その人らしさが蔑ろにされ、 何が物や部品として扱われていたのです。そんな「顔を包んでいた布」が滅ぼされたということは、 その第三の場所にくれば、自分らしさを取り戻すことができるということです。そして何よりも生 きる力を与えられることが 8 節に記されています。ここには「死を永住に滅ぼしてくださる」とあ ります。これは困難の中にあって疲れ果て、打ちのめされ、生きる力を失って死んだ様になってい たけれども、そこに生きる力が与えられ起き上がっていくことが記されています。しかもそれは 6 節に最上の食べ物を用意されると記されているように、主なる神が全力で人に生きる力を与えてい くことが記しているのです。
主なる神はそんな場所を一人一人に用意しています。それは私たちが生きていくために必要だか らです。・・・はじめに私にとって教会が第三の場所になったことをお話しました。しかし、そん な第三の場所があったからといって、私が高校のクラスで浮いていた現実は変わりませんでした。 でも、私はそれが苦にならなくなったのです。なぜなら、高校が世界の全てではなくなったからで す。結局、高校では自分の居場所を作ることができませんでしたが、第三の場所の存在が私に力を 与えてくれて、高校にも通い続けることができたのだと思います。何よりも「何かあったらあそこ に逃げればいい」という、心の余裕ができました。主なる神はそんな第三の場所を一人一人に準備 していて下さるのです。
でも、そんな第三の場所・自分の居場所を見つけられない時もある。また、そんな場所を失って しまう時もあるでしょう。教会がそんな居場所や第三の場所になれればと願っているけれども、人 によっては難しいこともあるでしょう。・・・でも私は思うのです。自分にとって完全で理想的な 居場所なんて、無いのだと。むしろ神は、私にとって不完全な居場所を用意されるのではないでし ょうか。・・・それは、神が私たち一人一人と一緒に居場所を作ろうとされているからです。誰であれ人は、一人では生きることはできません。だからこそ居場所を求める者同士がお互いを知り、 理解し、支え合うことを神は求めておられるのではないでしょうか。・・・そのことが今日の聖書 箇所にも記されています。1 節の最初にはこのように記されています。「主よ、あなたはわたしの 神」と。ここでは「わたし」と単数形で記されてあり一人です。しかし、9 節の途中にはこの様に 記されています。「この方こそわたしたちの神。」と。ここには「わたしたち」と複数形で記されて いて二人以上となり、もはや一人ではありません。「わたし」から「わたしたち」へ。「私」という 独りから、誰かと共になり「私たち」になっているのです。
よく見ると、そこには過程があります。1 節では「わたしの神」とあり単数形の私と記され、4 節 には「砦」や「避け所」という逃げ場所が記されていて、6 節では「祝宴」という居場所が記され、 そして 9 節には「わたしたちの神」とあり、誰かと共になり「わたしたち」となっています。これ は困難の中で、「私」という一人一人がその逃げ場所に、逃げて来て、そこが居場所となって「私 たち」になっているのです。
その「わたし」から「わたしたち」へと招く方、導く方が 9 節に記されています。それは居場所 を共に作って行く方です。9 節をお読みします。 「その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。 わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。
この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。」
ここには、その方が私たちを救い、招き、導くと記されています。・・・確かにそうかもしれない。 でも、現実には孤独になる時もある。様々な問題を抱え、心底「あぁ独りなんだ」と実感する時も ある。そんな上から「この方がわたしたちを救ってくださる」と言われても、孤独は変わらないし 居場所がない。・・・そんな現実を思う時、私はクリスマスでよく読まれる聖書の一文を思い起こ すのです。それはマタイによる福音書 2 章 3 節です。そこをお読みします。 「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。」 これはクリスマスで良く読まれる、三人の学者たちが幼子イエスを尋ねた場面の言葉です。遠い国 の学者たちは、救い主を探して旅をしていました。やっとたどり着いたユダヤの国で学者たちはヘ ロデ王に「救い主はどこに生まれたのですか?」と問います。その問いに対する王や人々の反応が、 先ほど読んだ言葉なのです。もう一度読みます。「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エル サレムの人々も皆、同様であった。」ここではヘロデ王も、エルサレムの人々も不安を抱いたと記 されています。この「不安」とは、聖書のもともとの言葉で「動揺」とか「悩まされる」という意 味です。ですから、ここをどう読んでも、救い主がうまれたことを、喜んだり歓迎しているように は感じられません。むしろ生まれてきた子を拒絶しているようです。・・・ここから分かることは、 救い主イエスは誰からも歓迎されない所で生まれたということです。そこには居場所なんてありま せん。
イザヤ書に戻りますが、9 節途中にはこのように記されています。「この方こそわたしたちが待 ち望んでいた主。」この私たち一人一人を招き導く方は、共に居場所を作って行く方は、居場所が ない痛み・辛さを身をもって実感された方であるということです。その方が私たち一人一人を居場 所に招く。私たちが居場所を求めて「わたし」から「わたしたち」になる時、その根底を支えるの は、居場所がない痛み・辛さを実感された方なのです。少なくとも、その方は私たちと共に生きて いるのです。そんな方が来られる。それがクリスマスです。