ルカによる福音書4章16節から21節

イザヤ書61章1節から2節

久保親哉

東京平和教会2011/06/19

今年もクリスマスが終わり、あっという間に大晦日ですね。世の中のクリスマスからお正月への 変わり身の速さは、毎年すごいなぁと思わされます。でも、クリスマスを迎え「救い主が生まれて 良かった」ではなく、その「救い主」がどのような方であって、何を伝えたのかが重要だと思いま す。ですから大切なのはクリスマスの後なのですね。

今日の聖書箇所には、そんな救い主であるイエスがこれから福音を宣べ伝えていく時に、まず自 分の故郷に戻ったことが記されています。そこでイエスは、自身が何をするために来たのかを語る のです。今日の聖書箇所のルカによる福音書 4 章 16 節から 19 節をお読みします。 「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しよう としてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個 所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主 がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、 目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためで ある。

ここを読むと、そもそも人々が貧しく捕らわれていて、希望を見えなくされ、圧迫されている。 そんな苦しんでいる人々を想像することができます。そして、読み手であるイエスが、その人々を 解放し、回復し、自由にすると記されているかのようです。ここだけを読むとイエスは、威厳と力 がある偉大な方、そんなスーパーマンのように感じてしまいます。しかし、イエスが読んだイザヤ 書にはそんなスーパーマンが来るとは決して記されていないのです。ではそのイザヤ書は具体的に どのような方が来ると伝えているのでしょうか。少しイエスが読んだイザヤ書について考えてみた いと思います。

このイザヤの言葉はイエスの時代から約 500 年ほど昔に記されたものです。それはエルサレムの 人々がバビロン捕囚から帰ってきて、戦争で荒れ果てたエルサレムの街と神殿を建て直していた時 です。エルサレムは少しずつ繁栄を取り戻しつつありました。復興と繁栄といえば聞こえはいいの ですが、その時、エルサレムでは力強く繁栄していく人と取り残される人に分かれてしまっていた のです。

阪神大震災の時に、多くの仮設住宅が建設されました。そこに兵庫県だけでも約 4 万 6 千世帯以 上の方々が入所されました。その中で、生活を再建する力がある若い世帯や資金ある人たちは、 早々と仕事を始めて仮設住宅から出て生活を建て直していくのですが、病気を抱えていたり、金銭 的にギリギリの生活をしていたり、生き辛さを抱えていても支えになる人がいなかったり、立場の 弱い人々は、仮設住宅から出られず取り残されていきました。そして、最終的にはその取り残され た方々も、そこから追いやられていったのです。

エルサレムでも同じことが起こっていました。人々は、エルサレムが復興していく中で、新しい 生活を始める力がある人や復興に乗っかって繁栄していく人と、生活を立て直す力がなく取り残さ れる人に分かれてしまっていたのです。しかもそんな力のない人々は、エルサレムの街の外へ、壁 の外へ追いやられていきました。そんな復興から取り残され、壁の外に打ち捨てられた人々をイザ ヤは目の当たりにして、繁栄していく有力者や裕福な人たちを糾弾します。そのことがイザヤ書 59 章に記されています。その中の 3 節 4 節をお読みいたします。 「お前たちの手は血で、指は悪によって汚れ、唇は偽りを語り、舌は悪事をつぶやく。正しい訴え をする者はなく、真実をもって弁護する者もない。むなしいことを頼みとし、偽って語り、労苦を はらみ、災いを産む。」 取り残され、壁の外に打ち捨てられた人々を誰も助けようとしない。そんな中でイザヤは、このイ エスが読んだイザヤ書の言葉を語るのです。そのイザヤ書 61 章 1 節 2 節をお読みします。今日の もう一つの聖書箇所です。 「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い 知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人に は解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年、わたしたちの神が報復される日を告知し て、嘆いている人々を慰め」

ここはよく「イザヤがイエスについて預言した所だ」と言われていますが、イザヤはイエスを意 識してはいませんでした。ここに「わたし」と記されている人物が「良い知らせを伝える者」とし て記されています。これは「救い主」のことです。では、ここに記されている「良い知らせを伝え る者」「救い主」とは一体誰のことなのでしょうか?・・・ここでイザヤは、追いやられ打ち捨て られた人の中に「良い知らせを伝える者」「救い主」がいると語っているのです。しかし、その打 ち捨てられた人の中に「救い主」というスーパーマンがいるとは語っているのではありません。追 いやられ、打ち捨てられた弱い人そのものが「救い主」だと語っているのです。・・・ルカによる 福音書のイエスの所に戻りますが、イエスもそのイザヤの意図を重々承知の上でありました。これ はイエスが、自身について追いやられてしまう弱い者であり、打ち捨てられてしまう者であると言 っているのです。

私たちがイエスを想像する時、どのような姿を想像するでしょうか?この礼拝堂にはイエスと思 われる絵が飾ってあります。皆様がイメージするイエスの姿もこの絵と同じように、おそらく白人 の男性で健康的な体であり、誰でも包み込むような優しい目をしていてる。毅然として芯があり、 希望に満ち溢れている。そんなイメージがあるかもしれません。しかし、イエスの姿を伝えるもの は何も残っていません。ですから肌の色や髪がどうであったか分かりませんし、体に何か不自由さ があったかもしれません。本当のイエスの姿は分からないのです。

しかし、一つだけ確実なことがあります。それはイエスがガリラヤのナザレという村で育ったと いうことです。そこから彼の姿を少しイメージできるかもしれません。イエスが育った当時、その ナザレ村を含むガリラヤは、暴君であったヘロデ王に支配されていました。人々は重い税金と労働 を課せられ、生活は貧しく、今日の食べ物すらありません。食べ物がない、そのひもじさはとても 耐え難く、人の心を蝕んでいきます。人は食べるためなら何でもしてしまう。弱い人が、更に弱い 人から食べ物を奪う。そんな荒み切った中でイエスは育ったのです。更にイエスの父ヨセフは、お そらくイエスが 12 才になってから間もなく亡くなっています。そんな厳しい世界の中で、長男で あったイエスは母マリアを助けながら、兄弟たちを食べさせなければならず、昼夜働き続けたはず です。それは過酷そものでありました。その状況から察するイエスの姿は、継ぎ接ぎだらけの汚ら しい布をまとった肉体労働者そのものであったでしょう。その肌は日に焼け、顔は荒れ野の砂混じ りの乾いた風にさらされ、しわが深く刻まれていたことでしょう。 更に幼い時から、荒んだ人々 の中で虐げられ追いやられていく人を何度も見て、その心は打ち砕かれていました。そんな彼の目 は、きっと悲しい目をしていたはずです。決して偉大で威厳があり、力や希望に満ち溢れた姿では なかったでしょう。しかし、イエスは人の虐げられる苦しみや追いやられていく絶望、心が打ち砕 かれる痛みを知っていました。

イザヤは打ち捨てられ追いやられた人が「良い知らせを伝える者」「救い主」だ」と語りました。 「救い主」とは、その人のことだと。・・・イエスは貧し故の苦しみと虐げられる絶望の中で育ち、

このイザヤの言葉を読んだのです。そして更にイエスはこう言いました。ルカによる福音書 4 章 21 節を読みます。 「そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始 められた。」

イエスはこのイザヤの言葉が「実現した」と語ったのです。・・・でも、私はイエスに言いたい 「一体、何が実現したのか?」と。なぜならこの言葉を聞いたナザレの人々やガリラヤの苦しみや 貧しさはそのままでした。ここからイエスはガリラヤの街や村を残らず周り、多くの人々を癒し、 食事を共にし、福音を宣べ伝えていきました。それでも人々の苦しみや貧しさはそのままでした。 いや、イエスが十字架によって殺され、三日後に復活してとしても、ローマ帝国の虐げや暴君であ ったヘロデはそのままだったのです。人々が虐げられ、追いやられ、苦しめられ、もう起き上げる ことができないまでにその心は打ち砕かれていました。・・・私は言いたい「一体、何が実現した のか」と。結局何も実現しなかったのではないか、と。人々は打ち砕かれたままだと。

そんな思いの中で、イエスが読んだイザヤ書にある言葉が目に留まったのです。それはイザヤ書 61 章 1 節途中の言葉です。「わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち 砕かれた心を包む」。イエスは「打ち砕かれた心を包む」ために来た。生きることには苦しみが伴 う。その心は打ち砕かれてしまう。だからこそ、その打ち砕かれた心を包むために来た。打ち砕か れることは痛い、そして打ち砕かれることはこれからも続いていく。でも、その心が包まれること によって、実際に打ち砕かれるのは包んだ方です。

リンゴはハンマーで打ち砕いたら簡単に割れてしまいます。しかし、そのリンゴが木の箱に包ま れていたら、ハンマーで打ち砕く時に、先に壊れてしまうのは木の箱の方です。その時、リンゴが 受ける衝撃よりも、木の箱が受ける衝撃の方がはるかに大きいはずです。・・・私の心が打ち砕か れる痛みを、包み込んだ方が直接受けた。私が実際に痛みと思っている以上の痛みを包んだ方は受 けた。そして、これからも包み続ける。包む方も弱くて何もできないのに、現実はそう変わらない かもしれないけど、包み続ける。なぜならその打ち砕かれる痛みを知っているからです。

今年一年、色々あったと思います。私自身もいろいろありました。しかし、今思えば包まれ続け た一年だったと思います。来年もイエスは包み続けるのです。そして、願わくば、来年は平和の年 であるように祈ります。