創世記 1 章 1 節から 25 節

私が 20 代の時に、神学校の研修旅行で北海道に行ったことがあるのですね。皆で車に乗り、札
幌から根室まで、その距離はこの厚木から名古屋以上の道のりを、途中でいくつかの教会に寄りな
がら旅行しました。

その時の私は、いろいろと悩み神学校を辞めるかどうか迷っていたのです。

北海道の抜けるような青空の下を車で旅をしていましたが、私の気持ちはどんよりと曇ったままでし
た。旅の途中で私たちは阿寒という場所の近くの高台に着いて、お昼ご飯を食べることになったの
です。そこは本当に何も無いところで、地べたに座ってお弁当を食べることになりました。私は言
われるがままそこに座った、何の気なしに前を見ました。するとそこには息を飲むような見渡す限
りの大パノラマが広がっていたのです。一面が草原や沼で、奥には山々が見えます。その光景に私
は圧倒されました。今でもその景色を見た時の感動は忘れません。そんな広大な自然を見ていると、
自分はなんて小さいんだ、自分の迷いや悩みなんてちっぽけなんだ、と思えたのです。皆様も大自
然を前にしてそのように思われたことはないでしょうか。


主なる神はそのような大自然を、この世界を創造されました。そのことが今日の聖書箇所に記さ
れています。ここには、主なる神がまず混沌の闇に光を創造され、昼と夜、上の水と下の水、地と
海、草と木、太陽と月、海の生き物と空の生き物を創造し、最後には地の生き物を創造されたと記
されています。よくよく見ると、その創造の出来事の節目には「神はこれを見て、良しとされた」
と記されています。例えば 4 節前半「神は光を見て、良しとされた。」10 節後半「神はこれを見て、
2 良しとされた。」と。このような「良しとされた」が何度も記されています。ここを読むと、主な
る神が創造したその度に、「良し」「良し」と点検し「合格」と言っているようにも読めます。しか
し、この「良しとされた」という言葉は、そんな「許可」とか「合格」という意味ではなく、「幸
い」とか「美しい」という感動を表す言葉です。ですから創造された神ご自身も、自身が創造した
自然を見て「なんと美しいことか」と感動したのです。ひょっとしたら、私が神学生の時に見た、
北海道の大自然に感動したものに近いもかもしれません。とにかく、主なる神は「なんと美しいこ
とか」と感動したのです。しかも、それはその色や形だけを「美しい」と言ったのではありません。
それだけではなく、自然の素晴らしい仕組みにも感動されたのです。


皆さんはりんごやみかんを食べたことがありますよね。私はちょっと疑問に思うのですが。なぜ、
果樹は食べてくださいと言わんばかりに、木の枝になっているのでしょうか。だっておかしいじゃ
ありませんか。もし、自分のために栄養を貯めるのであれば、地の中に隠すとか、もっと違う方法
があるはずです。どうして、食べてくださいと言わんばかりに枝に果実としてなっているのでしょ
うか。・・・それには、このような理由があると考えられています。植物は子孫を残すためには、
遠くへ行かなければなりません。狭い範囲であれば、山火事や病気などで全滅してしまう危険があ
るからです。そこでリンゴ等の果樹は確実な移動方法を見出したのです。それは、動物に食べても
らうという方法です。例えば、動物はリンゴを食べて移動し、約 1 日後にウンチと一緒に種も排出
します。りんごの種は消化されません。その種は動物が一日移動した場所へ連れて行ってもらえる
のです。しかもうんちという栄養満点の肥料付きです。これは、自ら動くことができない果樹が、
移動し子孫を残すためのとても巧みな方法です。それに食べた動物にとっても美味しくて栄養にな
る。これはもての調和のとれた仕組みです。自然界にはそのような調和の取れた仕組みが満ちてい
ます。主なる神はその創造された一つ一つを見て「良しとされた」「なんと美しいことか」と感動
されたのです。


それは植物だけではありません。主なる神は生き物も創造されました。その事が 20 節から 25 節
に記されています。そこを読んでみましょう。
「神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」神は水に群がる
もの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造され
た。神はこれを見て、良しとされた。神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、
海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」夕べがあり、朝があった。第五の日である。神は言われ
た。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」その
ようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神
はこれを見て、良しとされた。」
この「生き物」と訳されている言葉は、聖書のもともとの言葉で「生きている魂」という意味で
す。ですからここはただ生き物ではなく、生きる力がみなぎる命そのものを創造されたと記してい
るのです。さらにここには「生き物をそれぞれ」とか「それぞれの生き物」と「それぞれ」という
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言葉が何度も使われています。この「それぞれ」とは聖書のもともとの言葉で「その種類に従って」
という言葉です。これは「その多様性に従って」とも読めます。主なる神が生き物を創造される時、
多様性を大切にされた。多様性に富む生き物を創造れたということです。その多様性を、主なる神
は「なんと美しいことか」と感動されたのです。
主なる神はそんな世界を創造されました。もちろん私たち一人一人も創造されました。しかもそ
の創造された一人一人を「なんと美しいことか」と感動されたのです。・・・しかし、一方で私は
ここを読むと思うのです。私の生きる現実を、私の人生を、神はどう思われているのだろうか、と。
はたして神は「なんと美しいことか」と感動されるだろうか、と。確かに私は神に創造されたけど、
神の期待通りに生きているだろうか、と。・・・人はなかなか思い描いた人生を歩むことはできま
せん。私は、この大自然のように素晴らしく、調和の取れた人生を歩みたかったけれども、それと
は全く逆で、矛盾だらけで不協和音が聞こえてきそうな人生を歩んできたように思います。そんな
私の人生を、私の現実を、神はどのように思われているのか。
この天地創造を読む時、そこから自然の素晴らしさや神の創造の偉大さを思わされます。しかし
一方で、自分とはかけ離れた物語のようにも思えてしまう。神の創造の物語には、自分の居場所は
ない。「私が生きている所には、神はいないのか」とさえ思えてしまう。そんなことを思うのは私
だけでしょうか。

実は、今日の聖書箇所の書き記した人々は、まっすぐな道を歩み、順風満帆の人生の中で「主な
る神はなんて素晴らしいのでしょう」と感謝して書き記したのではありません。どうしようもない
困難の中を生きていた人たちが書き記したのです。この創世記が編纂されたのはバビロン捕囚の時
だと言われています。ですからこの物語は、神を失った人々が、もう一度、神を見出す物語でもあ
るのです。・・・少しだけ「バビロン捕囚」についてお話しします。今から遡ること約 2500 年前、
イエスから約 500 年前、エルサレムを首都とする南ユダ王国は細々と存続し、エルサレム神殿では
かろうじて主なる神への礼拝が続けられていました。しかし、バビロン帝国によって侵略されエル
サレム神殿は破壊され、南ユダ王国は消滅してしまいます。人々は殺され、生き残った人々は捕囚
として 1000 キロ以上離れたバビロンまで連れ去られました。それがバビロン捕囚です。
このバビロン捕囚によって、ユダヤの人々の神の捉え方・神の概念が大きく変わります。それま
では、神とは自分の国や民族だけの神という捉え方でした。主なる神は、南ユダ王国だけの神であ
り、ユダヤの人々だけの神でありました。神の力もそこだけにしか及ばないと考えられ、信じられ
ていたのです。・・・それがバビロン帝国との戦争によって負けてしまった。戦争は神と神との戦
いでもあります。その戦いに負けてしまい国は滅んだ、それは彼らにとって「主なる神が死んだ」
ということを表しています。これは主なる神を信じていた人々にとって、とてもショックなことで
ありました。今まで心底信じていたものが、根底から崩壊したのです。遠いバビロンまで連れ去ら
れた人々は絶望のどん底の中で思ったはずです。「主なる神は死んだのか」「もう私たちの神はいな
いのか」「そもそも神とは何だったのか」と。彼らは家も故郷も、友も家族も全てを失い、神すら
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も失ったのです。・・・そんな彼らがこの創世記を編纂したのです。それは神を失った彼らが、神
とは何かと模索し探す旅でもありました。彼らにとって捕囚は、まさに混沌と闇であったでしょう。
そこに光はあるのでしょうか。今日の聖書にはそんな彼らの状況が記されています。今日の聖書箇
所の創世記 1 章 2 節 3 節を読んでみましょう。
「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あ
れ。」こうして、光があった。」
この混沌と闇は、正に捕囚を生きていた彼らの状況を表しています。そんな真っ暗闇の中で彼ら
は光を見出すのです。・・・それは「私たちの神はいない」「神は死んだ」と心底思っていた彼らが、
「神は、ここで生きている」と実感していくことになるからです。これはとても不思議なことです。
国も故郷も家族も失い、絶望のどん底に落とされた彼らが「ここに主なる神が生きている」と実感
した。本来なら、バビロンでその信仰が潰えていても不思議ではありませんでした。いやむしろ潰
えていたほうが自然です。なぜならどう考えても「主なる神は死んだ」という絶望の状況だからで
す。そんな状況の中で、彼らはどうやって神を実感することができたのでしょうか。・・・私は思
うのです。彼らにとってこの 3 節の言葉のような出来事があったのではないか、と。3 節をもう一
度読みます。「神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった」。具体的には分からないですけど、
彼らはそんな光を実感した。それはもう理屈ではない。主なる神によってそのように導かれた、と
しか言いようがありません。彼らは暗闇の中で「光」を見出したのです。「主なる神はここで生き
ている」という光を見出した。
そしてその時、彼らは大きなハードルを超えることになります。彼らはバビロン捕囚の経験を経
て初めて「主なる神が自分の国や民族だけの神ではなく、世界を創造された神なのだ」と大きく脱
皮したのです。
幼稚園では毎月こどもたちが聖書の箇所を覚えます。先月の 6 月は創世記 1 章 1 節「神は天地
を創造された」でした。偶然に今日の聖書箇所と一緒だったのです。幼稚園では、先生対象に「そ
の月の聖書の学び」を行っています。その時、先生方に、「この聖書の言葉は自分に何を伝えてい
ますか」というお題で話し合い、発表して頂ました。そのいくつかを紹介します。
「神さまが天地を創造され、それぞれ全てを「良し」と言ってくれた。それは私たちの 1 日 1 日そ
れぞれを「良し」として下さる。たとえそれがどんな一日であったとしても、それを「良し」とし
てくださり、元気を与えてくれる」。もう一つ「神さまは天地を創造され、それぞれが繋がり合っ
て成り立っている。それと同じように、私たちもそれぞれの繋がりの中で成り立って生きている」
と。私は、その発表を聞いて、本当にそうだなぁと思いました。
私たちの人生は、矛盾や不協和音ばかりかもしれません。しかし、主なる神は、そんな私たちの
ところにいて、共に生きているのです。この聖書を記した人々がそう実感したように。そして、私
たちの一日がどんな日であったとしても「良し」としてくださり、生きる力を与えてくれる。誰に
もそんな「光」があるのです