ルカによる福音書2章8-20節

山下ジョセフ

本日の礼拝では教会の有志聖歌隊が讃美歌二編219番『さやかに星はきらめき』を賛美しました。『さやかに星はきらめき」は英語名『オー・ホーリー・ナイト』とも呼ばれている讃美歌であり、私の一番好きなクリスマス・ソングです。この歌のメロディも好きなのですが、特に好きなのは歌詞です。この歌の歌詞をご覧になればわかりますが、イエス・キリストの誕生を歌い、その後、イエスキリストの生涯を歌っています。イエス様は私たちの重荷を担う方であり、互いに愛するように説く方であり、鎖を破壊して自由を与える方であり、平和の君、愛の人である、と書かれている歌です。私はこの讃美歌があまりにも好きで、有志聖歌隊の皆さんが歌う『さやかに星はきらめき』をぜひ聴きたいと思い、去年の秋から歌ってほしいとリクエストしていました。

 

『さやかに星はきらめき』はフランスで生まれた讃美歌です。1843年フランス南部ガール県の小さな町ロックモールの教会がオルガンの改築をしました。ロックモールの教会の司祭は、オルガンの改築をとても喜び、改築祝いに何か記念となるものがないかと思いました。そこで司祭が思いついたのが、ロックモールの町で有名な詩人プラシド・カポーに詩の制作を依頼することでした。制作を依頼されたプラシド・カポーは司祭からの依頼に対してあまり乗り気ではなかったのですが、司祭の説得により『ミニュイ・クレティアン(真夜中の聖夜)』という名の詩を書き上げました。後にプラシド・カポーはこの詩を大変気に入り、曲をつけて歌にしようと思い、友人でありバレエ演目『ジゼル』で有名な作曲家アドルフ・アダンに作曲を依頼し、1847年ロックモールにてオペラ歌手エミリー・ロウリーの独唱をもって初披露されました。1855年『ミニュイ・クレティアン』はアメリカの音楽評論家ジョン・サリバン・ドワイトが『オー・ホーリー・ナイト』と英語に翻訳し後に世界的に有名なクリスマス・ソングとなりました。日本では『きよしこの夜』の翻訳で有名な由木康が訳した讃美歌二編の『さやかに星はきらめき』と讃美歌『シャロンの花』『キリストには代えられません』の翻訳で有名な中田羽後の訳した総合版聖歌の『清らに星すむ今宵』と二つのバージョンが存在します。『さやかに星はきらめき』は教会で愛されただけではなく、ビング・クロスビー、マヘリア・ジャクソン、ルチアーノ・パヴァロッティ、マライア・キャリー、BTSのジョングクなど、世代やジャンルを超えて世界的に有名な歌手が歌い、世間の認知もとても高い歌です。

 『さやかに星はきらめき』は長年愛された讃美歌なのですが、ウソみたいな逸話がある歌でもあります。1870年、当時バラバラだったドイツを統一しようとしていたプロイセン王国とこれを阻もうとしたフランスの間で普仏戦争が勃発しました。その戦争のさなかのクリスマス・イブ、あるフランス軍の兵士が武器を持たずに塹壕から飛び出て「さやかに星をきらめき」を歌いだしました。ウソのような驚きの光景を見た両軍の兵士は思わず武器を置いてしまいました。そのフランス兵が『さやかに星はきらめき』を歌い終わった後、あるプロイセン軍の兵士が塹壕から出てきて、マルティン・ルターが作詞作曲したクリスマス讃美歌「いずこの家にもめでたきおとずれ(讃美歌101番)」を歌いだしました。その後、クリスマスが終わるまで誰も武器を持つことはありませんでした。

 

『さやかに星はきらめき』はウソみたいなエピソードのある讃美歌ですが、聖書によるクリスマス物語はウソみたいなことばかりが起こっている物語なのです。今回は、その中でも羊飼いのエピソードから学んでいきたいと思います。

 

2000年前のパレスチナでは羊飼いは必要不可欠な職業でした。羊は人にウール、ミルク、皮、肉を提供していました。また、ユダヤ教では羊は神への献げものとして使われ、また、過越の祭りというユダヤ教で最も重要な祭りでも過越の食事のメインとして使用されています。つまり、羊は社会的にも宗教的にも大事な家畜であり、財産だったのです。羊を所有していることは富の象徴であり、所有している羊の頭数が多ければ多いほど裕福であるという証明だったのです。羊飼いたちは多数の羊を所有している富豪によって雇われていた人たちです。聖書では羊飼いはとても尊敬されている存在であり、人々のあこがれの職業であるかのような錯覚を覚えてしまうように書かれていますが、イエス様の時代の現実は全く違うものでした。羊飼いたちは、町から遠く離れた場所に住み、24時間休みなく、羊たちを水の飲むことのできる泉や、食事のできる草原へ導き、オオカミなどの猛獣や強盗から羊たちを守っていました。羊飼いたちは定住することなく旅を続け、社会とのかかわりの薄い人々だったため、羊飼いは社会から疎外され追いやられた人々が行う社会の底辺に位置付けられた仕事となり、汚れた人々であるとレッテルを貼られ忌み嫌われるようになりました。ユダヤ教の社会では汚れた人や物に触れると自分自身も汚れてしまうと思われ、伝染病のように扱われていました。つまり、汚れているとみなされていた人は社会から追いやられていました。羊飼いはそのように汚れた人とみなされ、社会から追いやられていた人々でした。

本日の聖書箇所はイエス・キリストの生まれたクリスマスの夜に社会から疎外されていた羊飼いたちに起こったことです。その夜、イエス・キリストの生まれた町ベツレヘムから少し離れていたところで夜の番をしていた羊飼いたちにウソみたいなことが起きます。ルカによる福音書28-9節「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」なんと羊飼いたちに前に光り輝く天使が現れたのです。ウソのような光景を見た羊飼いたちは恐れおののきます。10-14節「天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」」目の前に光り輝く天使が現れただけではなく、空いっぱいに天使が現れたのです、ありえないとしか思えない出来事が立て続けに起こりました。天使たちが去ったあと、冷静になった羊飼いたちは天使の言葉を思い出したのです。「ダビデの町、別名ベツレヘムに私たちの救い主が生まれた」と、それを見に羊飼いたちはベツレヘムへ向かったのです。羊飼いたちがベツレヘムへ向かったのはとんでもないことでした。普段、社会との関係を持っていない集団が夜中にやってきた。ベツレヘムの町の人々から見たら強盗団がやってきたと誤解する可能性があり、羊飼いたちにとっては命の危険の伴うことだったのです。しかし、そのような状況でも羊飼いたちは神に遣わされた天使の言葉を信じ町へ向かったのです。

羊飼いたちがイエス様たちのもとへたどり着いたときに何が起こったかは聖書に書かれていませんが、想像することは難しくないと思います。まず、羊飼いたちがたどり着いたことに気づいたマリアの夫ヨセフが快く向かいれたのではないかと思います。そのことに羊飼いたちは驚きます。なぜなら、羊飼いたちは汚れたものとされ、社会から疎外されていた、忌み嫌われていた存在なのです。正直、たどり着いた瞬間に追い出されてもしょうがないと思っていたでしょう。その後、イエス様の眠っておられる飼い葉おけのもとへ案内された羊飼いたちは、マリアから生まれたばかりのイエスを抱くようにと促されたとも想像できます。しかし、羊飼いたちは初めに抵抗するのではないでしょうか。「私たちは羊飼いという汚れた存在です。もし、この子に触れてしまったら、この子も汚れてしまうでしょう。」、その時、天使から言われた言葉を思い出すのです。「あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」。「このイエスという名前のみどりごは、私のような汚れた人の救い主でもあるんだ。」。汚れたものであるとレッテルを貼られ、社会の人々から忌み嫌われた羊飼いたちは、クリスマスの夜にイエス・キリストと出会い、神の恵みを全身に受け、神に愛されているという確信を得て、大いに喜び、大声で「救い主がお生まれになった!!」と人々に伝えながら帰っていったのです。

イエス・キリストの生涯は、正に羊飼いの出来事が暗示したとおりのものでした。イエス様は汚れた人、罪人、混血、よそ者等、社会的・宗教的に疎外され追いやられている人たちに触れあい、食事を共にすることによって、人と人の間にある分断を飛び越えていった方なのです。なぜそのようなことをしたのでしょうか。それは、神が人を分け隔てなく愛していることを示すためであり、イエス様ご本人も人を分け隔てなく愛を示していたからです。しかし、このイエスの愛によって疎外されている人たちと関係を持つことは秩序を乱すことだったのです。権力者たちにとっては、社会的に疎外され追いやられている人々が追いやられたままでいることは社会的・宗教的秩序のために必要だったのです。しかし、イエス様は秩序を乱すと分かっていながら、社会から追いやられていた人々に愛を示したのです。社会秩序を乱し続けているイエス様を面白く思わなかった権力者たちはイエス様を十字架にかけ、殺したのです。イエス様は人を愛するがゆえに、十字架で人と人を分断する、人が人を搾取する、人が人を追いやる、それらの罪を全て受け止め死に、愛を示すために三日後に復活したのです。イエス・キリストの誕生はウソみたいな話であり、イエス・キリストの生涯もウソみたいな話であり、イエス・キリストの十字架による死と三日後の復活もウソみたいな話です。これらのウソみたいな話から神の愛と恵みを全身で受け、このウソみたいな存在であるイエス・キリストを信じ、人々に神の愛の恵みであるイエス・キリストのウソみたいな話を広めている存在こそが、私たちキリスト教徒なのです。

少しだけ、讃美歌『さやかに星はきらめき』の話に戻りたいと思います。実は、『さやかに星はきらめき』はとても大きな問題を抱える歌であり、その問題によって「秩序が乱されるから教会では歌うべきではない」と言われることもある歌です。なぜなら、作詞をしたプラシド・カポーは教会から無神論者とみなされていたからです。当時のヨーロッパのようにキリスト教の影響力が強い地域では、キリスト教会に反抗する人は無神論者とみなされていました。イエス・キリストに関してここまで真摯に書かれた歌詞から想像するに、カポーはイエス・キリストに対しては少なくとも尊敬の念を持っていたのですがが、教会に対しては批判的であり、最終的には教会へ行くことをやめてしまいました。つまり『さやかに星はきらめき』は後にキリスト教会に反抗しキリスト教から離れた人によって書かれた讃美歌です。そのため、宗教的秩序を守るためにこの歌を教会から追い出さなければならないと言われることがあります。しかし、『さやかに星はきらめき』で描かれているイエス・キリストの誕生と生涯に大きな感動を覚えたキリスト教徒も多い歌です。私自身もそうです。無神論者とみなされた人の書いた作品であるかどうかはそこまで重要なのだろうか。私は、この讃美歌の歴史を思い出すたびに、秩序とは何なんだろうかと考えさせられます。

秩序とは何なのだろうか。これは昔々のパレスチナの話だけでもなく、150年前の讃美歌『さやかに星はきらめき』の話だけでもなく、現代の話でもあります。現代社会でも秩序を守るため、マジョリティの安全を守るため、社会の役に立たない外国人を追い出し、障碍者を社会から追いやり、力ある人を保護し、力ない人を搾取しています。また、ものを言うわきまえない女性や女性に従うわきまえた男性は結婚・家族の秩序を乱す存在であり、ハーフ・ミックスは人種や民族の秩序を乱す存在であり、LGBTQIA+は性別の秩序を乱す存在だとみなされています。また、戦争や虐殺も「秩序を守るため」という大義名分で起こされることも多く、実際に第2次世界大戦時の日本やドイツは秩序を守るために戦争や虐殺を行い、現在もロシアやイスラエルは秩序を守るために戦争や虐殺を行っています。しかし、イエス・キリストは秩序を乱してでも人を愛した方です。私たちにも、同じように人にキリストの愛を示すために秩序を乱さなければならないことがあります。この世の中には、人の信じていること、確信していること、守っていることに反することをしなければ愛することのできない人々もいるのです。そのようなときにこそ、秩序を乱したイエス・キリストのウソのような誕生、ウソのような生涯、ウソのような死と復活を思い出し、イエス様への信仰をもって秩序を乱してでも人を愛することができますように。